漫画論

『百億の昼と千億の夜』(萩尾望都)と「数」から考察する、発見と魔法のお話

執筆者:佐佐木あつし

漫画的、発見と魔法

中学生の頃。
その本を読んだ時の衝撃はとても言葉に尽くせるものではなかった。

萩尾望都『百億の昼と千億の夜』

『百億の昼と千億の夜』
原作:光瀬 龍
作画:萩尾望都

SFマガジンに連載された光瀬先生の同名小説の漫画版で、少女漫画家、萩尾望都先生によって『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)にて、1977年から1978年まで連載された。

いわゆるSF漫画なのだが、当時の少年誌としては異色と言わざるを得ない、少女漫画家の起用ということもさりとてながら、少年誌において主人公の阿修羅王が中性的な少女として描かれていたり、同時期の1977年当時、SFとして爆発的な人気を得ていた「宇宙戦艦ヤマト」とは真逆と言っていいほどのファンタジーSFというジャンル。
まさに異例づくしの作品がこの『百億の昼と千億の夜』なのであった。

主要登場人物は、
阿修羅王、プラトン、シッタータ(釈迦)、キリストという、この上もない凄まじいばかりの豪華キャストが次々に現れる。

内容に関してはここでは詳しくは語らないが、ここで言いたいのは、この作品を通してのマンガ論的な発見の考察である。

特に記憶に残る名場面として、主人公、阿修羅王が(見てくれは中性の美少女?)出家したばかりのシッタータ太子(釈尊)に弥勒のことついて話すシーンがある。

「56億7千万年後に何が起こるというのだ?末法の世が来るという―?末世に至るほどの出来事とはなにか?」
「それほどまでの破滅とはいったい、なんであるか?太子には想像がつくか?」

シッタータ太子は答える。
「それはわからぬ…わたしのような者には……」
阿修羅王がそれに答える。
「弥勒は知っている!でなければこうも大口がたたけるものか!」
「弥勒なら知っていよう…だからこそ救済を……」
怯えながら話す若きシッタータ太子に阿修羅王は再び問う。
「では!」
「なぜ弥勒は説明しない?どんな末世が来るものか?どんな破滅が起こるのか!なぜ弥勒はだまって自分の出番まで待っている!?」
「説明したがいい!ついでに救いの方法も説いたがいい!もこと 救いの神ならば破滅の到来をこそ防ぐべきだ!」

この阿修羅王とシッタータ太子の不気味な会話に隠された恐るべき疑惑。
「救いの神ならば破滅の到来をこそ防ぐべきだ!」
このセリフに隠された不安感は一体何なのか・・・・

キリスト教には最後の審判があり、その後にユートピアが訪れ、
また、仏教には56億7千万年後に弥勒による救済があるという。
しかし、救いがあるとするなら、その前提には救わねばならないほどの破滅があるはずである。

神仏が救うものならば、
破滅の原因そのものを取り除くことの方が簡単ではないのか?

それなのに、なぜ手をこまねいて、はるか気の遠くなる程の時間の果ての予言を待たせるのか!?
なぜ、神仏はそれをそのままにして、ただ、出番を待っているのか!?
待たせるだけ待たせた、はるかな時間の果てに一体何があるというのか?
そもそも、神仏はさばくものか?救うものか?

こう考えた時
我々はここで慄然としなければならない。

「神仏はさばくものか?救うものか」

不可知論かも知れない反実在論かも知れない。

しかし、この短い言葉により、我々は確実に今まで常識としていたものが、まるで足元から地が割れ、自らの世界観そのものまで否定しかねない状況に陥ってしまう。

美少女 阿修羅王の絶望的な表情に読者は小説では読みきれなかった啓示を突きつけられる。

常識からの脱却とその新たな価値観の提示、そしてロジックのわかり易さこそ、読者が漫画を読む上でカタルシスを味わい尽くせる最大の鍵であり発見なのだ。

隠された秘密の魔法

ここで、もう一つの話を紹介したいと思う。
普段、気にもせず見ていたものが、ふとした視点を変えることによって、それがいかに劇的な変化するかと言うもの。
俗っぽく食いうと、身近に転がる「アハ体験」的話である。

まず、以下の数式をご覧頂きたい。

1+3=4

4+5=9

9+7=16

質問は
さて、この三つの数式の共通項は何でしょう?というものである。

だが、ここで答えを言う前に、まだ書かねばならないことがある。
そうでないと、この問題はただ単純なクイズになってしまい、本題から外れてしまうからである。

改めて問題の数式をもう一度見ていただきたい。

1+3=4

4+5=9

9+7=16

この各3つの数式はアラビア数字で表されている。

アラビア数字というのは、大本がインド最古の数字、
ブラーフミー数字が原点だそうだが、
当時はまだ「0」の概念は発明されておらず、「位取り記数法」では無かった。
(「0」の発明は5~6世紀頃?)

この数式を我々が見ると、何の変哲もないただの算数である。
しかし、
大昔の人々にとってみると、こうした数学にしろ識字にしろ、現代の我々の誰もが知っている単なる学問としてのそれではなく、限られた人のみが扱う事が出来る
大いなる魔法なのだった。

簡単に言えば、文字を知らない人にとって、
記憶を文字にして何十年間も何百年も保管出来ると言うのは、まさに奇跡であり、魔法としか思えない技だ。
実際、三平方の定理(ピラゴラスの定理)で有名なピタゴラスは「古典ギリシャ最大の魔術師」などと呼ばれている。

ピタゴラスの時代、数を数えるのに最も簡単な計算機は、
両手にある10本の指であり、
道端に転がっている石ころだった。

では、それを踏まえ
さっきの数式をピタゴラスの時代に遡り、
石ころで表現してみよう。すると今まで目に見えなかった一つの事実が浮かび上がる。

数字の魔法01

1+3=4

4+5=9

9+7=16

どうでしょう?
アラビア数字では見えなかった。
具体的なある形・・・

正方形が現れた!

数式を具現化する事で、
今まで見えなかったものが見えたのです。

ピタゴラスはなおも思索を続ける。

「この思考の果には世界の秘密をも解ける鍵が隠されているのかもしれない」
と。

彼は石ころ遊びを続けた。

数字の魔法02

この増大する正方形は
小さな正方形に入ってる奇数に、その次に大きな奇数を足せば求められる。

1の次の奇数は3だから足せば4になるし、
3の次は5だからさっきの4の正方形に5を足してやれば、
次の位の9の正方形になる訳です。

こうして、石ころを持って数学をとらえただけでも物の見方がころりと変わる・・・この新たなる発見が物語として紡がれた時、漫画の面白みと醍醐味につながっていくのだ。

そして発見と魔法の旅へ

我々は今、二つのお話。
『千億の昼と百億の夜』で描かれた神仏の存在意義、その役目に関して小さな疑問を抱き、また、ピタゴラスとともに数学を視覚化し昔の魔法を体験しそして新しい発見をした。

これはこの記事を読んだ方々が一様に同じ体験をしたことを指す。

「なるほどねー」
「へーー」
「これは俺も知ってたな」

個々に様々な感想はあるだろうが、知的好奇心は刺激されたのではないだろうか?

漫画の主人公は物語を通して、こうした新しい考え方や、目線、体験や発見を我々の前で演じ、泣き喜び、怒り悲しみそして、また新たな敵にたち向かっていく。

そこで提示される真新しい発見や生き方に、我々は主人公と気持ちを同化させ、思考法を学び取り、追体験効果として精神的な学習をする。

我々は今まで読んだ漫画の中で、大海を旅する主人公と同化し、宇宙船での戦いに望み、甲子園での決勝戦で血を吹き出しながらボールを投げるなどして、それぞれの主人公を通して様々な人生を享受してきた。
自分以外の人間に感情を移入し一緒に泣き、笑う。

人生は発見の連続体だ。
子供時代はすべてのものが謎に包まれ、世界は不思議に満ちきらきらと輝き、その全てを発見されるのを待っていた。
おとなになった我々はいつの間に発見の冒険をやめてしまったのだろう。
思いついた疑問があっても、すぐに答えをネットに求め安易な日常を過ごすようになったのだろう。

我々の冒険はまだ終わってなどいない。その気になれば
蝋燭に灯された炎の中にも疑問がすぐにいくつも湧いてくる。
普段歩かない路地にも新たな発見や出会いがある。
無造作に選んだ本。なんとなく声をかけた子供との会話。空の雲、
木漏れ日の美しさ…

発見から目をそらしてはいけない。
そしてもし、本当に忙しくて時間に追われ冒険の旅にどうしても出かけることができない時。

そんなときこそ、傍らに一冊の漫画を置き2~3ページでもいい、
頁をめくれば、いつでもそこに大冒険の舞台と大発見が待っているかもしれない。

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